CCIP(パリ商工会議所)のあゆみ

1803年-2005年:パリ会議所2世紀の歴史
設立
共和暦11年6月6日(西暦1803年2月25日)、ナポレオン・ボナパルトによってパリ商業会議所設立に関する政令が定められ、その200年後にも変わらず若さに満ち、革新的な組織の歴史の1ページが開かれました。
こうした若さと革新性は本会議所の特徴であり、揺ぎなき自由主義経済の提唱者であった創設メンバーの精神は現在も脈々と受け継がれています。その歴史の中で本会議所は、技術やテクノロジー、あるいは社会の大きな変化に各企業が容易に適応できるよう、変化の影響を予測し、対策を講じるため、努力を払ってきました。
各会議所の役割を定める法律は1832年6月16日付け勅令、1851年9月3日付けルイ=ナポレオン政令、1898年4月9日付け共和国法などにより数度変更されましたが、その都度公的機関としての地位は高められました。このようにパリ会議所は時とともに絶えず発展を続けてきました。
独立性
1803-1814年:独立性の確認
会議所「創設の父」である15名のパリ会議所初代選出メンバーは、初期の会頭ピエール・ヴィニョン(Pierre Vignon)やピエール=サミュエル=デュポン・ド=ヌムール(Pierre Vignon et Pierre Samuel Dupont de Nemours)をはじめ、仲買人、製造業者、銀行家などみな一流の名士であるとともに、商業活動に降りかかるあらゆる障害を取り払うとの決意に満ちた自由主義者でもありました。
そのため、彼らは助言活動という基本的な役割以上の仕事も常に行ってきました。
その適切な会議運営や、監督機関である内務省からの評価報告、あるいはパリ会議所の資金拠出による大砲120基を搭載した戦艦の政府への提供(イギリスによるアミアン講和条約の破棄により、フランスで起きた愛国的運動の勃興を受けたもの)を初めとする大胆な自発的な行動のおかげで早い時期から会議所の独立精神が認められ、これが今でも組織の特徴となっています。
1815-1848:自由主義経済の推進
再び君主制になると、積極的な企業家が掲げていたこうした自由主義に反対する風潮がただちに生まれました。
幸い、ドレセール(Delessert)家、オディエ(Odier)家、テルノー(Ternaux)家のほか、後に7月王政の評議会議長となるラフィット(Laffite)家やペリエ(Périer)家など代々の会議所のリーダー達の名声のおかげで自由主義の伝統が絶えることは避けられました。
その例として、1819年には各種高等経営教育機関の先駆けとも言える高等商業学校(Ecole Supérieure de Commerce)の創設を支援し、また1824年、会議所は初めて公共サービスにおける初の財務管理任務(税関)を担いました。
産業革命
1848-1870:産業革命とともに歩む
政治的というはより社会的な1848年の革命では、先進地域であったイングランド、ラインラント、ザクセンなどに比べ、フランスの産業発展の遅れが浮き彫りとなりました。当時大統領であり、その後まもなく皇帝となる皇太子ルイ=ナポレオンはこうした状況を確認すると、それまでの会議所の努力を評価し、1848年と1860年の2回、パリの経済の状況を知るため工業に関する初の統計調査を行うよう会議所に依頼しました。
また、1852年、会議所は繊維産業の支援に向けた「絹・綿の条件」研究所という公的研究所を、また1863年にはトリュデーヌ大通りに商業学校を設立し、職業教育に直接関与し始め、1869年には高等商業学校(ESC)の管理を担うようになりました。
国際貿易への開放
1871-1918年:パリの商業を世界に開放
商業会議所による1881年の高等商業学校(HEC)、1889年の商品取引所、1898年の貿易公社などの設立は、それまでの植民地主義から貿易活動への方向転換に大いに貢献しました。会議所では大戦中も中立国に向けて反プロパガンダ雑誌の出版や、1917年の紛争時もためらうことなくパリ見本市を再開するなど、積極的に輸出事業を支援しました。
作業場併設学校
1919-1928年:狂乱の時代を忘れる
優先課題として、荒廃した地域の再建や人的資源を失った産業の復興のため団結が必要でした。迅速にプロを養成するため、1919年以降、会議所はそれまでも常に評価の高かった技術教育を専門に行う作業場併設学校を次々と創設しました。1926年、こうした新しい活動や調整のため、フリードランド大通りのポトツキホテルに会議所を移転しました。
危機と戦争に直面
1929-1945年:危機と戦争に直面
ニューヨーク株式市場の大暴落後、フランスにおいても事業全体を不安に陥れる不況や経済の減速を経験しました。特にフランスの貿易赤字の回復は非常に困難な状況にあったことから、多くの国が定めていた外貨流出禁止策による影響を緩和するため、政府は補償公社を設立しました。
1932年、会議所はフランス全土の補償公社の管理を任せられ、また当時1936年の新会社法施行に向けて企業を支援する必要もあったことから、100名以上の新規採用を行いました。
その後、再び戦争が勃発し、非常に厳しい状況にあったにもかかわらず、会議所は在外国民の利益を擁護するため前向きに努力を続けました。
1940年6月のフランス軍の瓦解中も、事務所の徴発は避けられ、会議所の活動を続けました。しかし、その後会議所としての権限が剥奪されたため、主に教育施設の活動に専念することとなりました。
再建と近代化
1946-1968:再建に関わる
1946年、活力を失ったフランスにおいて新政府は次々に国営化政策を採択しましたが、これは自由主義経済を標榜する会議所の非難の的となりました。しかし、活動再開は重要な関心事であり、こうした観点から、会議所では当時冒険とも思われた欧州統一にいち早く関わりました。
また、すべての企業に有益なインフラ開発を続けたほか(ジェヌヴィリエ港、パンタンの国際車両用ターミナル)、1964年には高等商業学校をジュイ・アン・ジョザスに移転し、初のアメリカ風の大学キャンパスを創りました。
また、会議所はパリ地域の新整備計画に関する議論を積極的にリードしました。最終的に地域は4県に分割されましたが、代表者4名を立てながらもパリ商工会議所を唯一の統合会議所として残しました。
パリを経済的首都に
1969-1990:パリをヨーロッパの経済の首都に
「栄光の30年」に支えされた経済成長を終え、新たな危機である石油危機が始まる頃、パリ会議所は欧州統一の加速に向けて努力を払い、パリを欧州レベルの真の経済的首都とするべく最大限支援する準備を始めました。
そして、1974年のポルト・マイヨ国際会議場、1983年のパリ・ノール・ヴィルパント見本市会場、1975年の欧州経営大学院(EAP)などの創設ほか、1987年の高等電子技術学院(ESIEE)をマルヌ・ラ・ヴァレ新都市に移転するなど、パリの国際的発展に向けた大規模事業を遂行しました。
第3ミレニアムに備えて
1991年から今日まで
交流のグローバリゼーションは、避けがたい中央行政の地方分権の必要とともに、新世紀初頭の新たな課題です。
商業競争に不可欠である販売員教育に向けた新施設の創設(1992年centre Négocia設立)、ヴィルパント見本市会場(1995年および2001年)および国際会議センターの増床(1999年)など、イル・ド・フランス企業の新しいニーズに前向きに答えました。
今日、会議所はその使命にのっとり、企業家や企業取得者、あるいは中小企業の輸出促進に対する支援を行っているほか、イル・ド・フランス地域圏議会および地域圏商工会議所との協力の下、地域圏開発庁の業務にも加わっています。
ボランティアである80名の選出企業長は、200年前に始まり、2回の帝政、3回の王政、4回の共和制の下で常に続けられてきた、あらゆる企業の利益擁護のためのこうした戦いに果敢に挑んでいますが、これは彼らが「成功することが難しくなってきており、さらに積極的は企てが必要とされている」ことをよく知っているからです。